「無視するもののために」  02.12.01
                  イザヤ53:1〜3

 今年も待降節に入りました。クリスマスの深い喜びと感謝を
味わうためにも、まずイザヤの預言に耳を傾けたいと思います。

 先日、ある信仰者が「クリスマスは、本当は悲しい日よね…。」と
おっしゃいました。私たちは、クリスマスに悲しみがあることを
知っています。
 それは第一に、神さまが愛する独り子を失った悲しみです。
クリスマスに、神は主イエスを人にお与えになったのです。
しかもそれは、人から大切にしてもらうためではなく、人の罪を
負わせ、むごい十字架の死へと進ませるためでした。
 イザヤ53章には、「苦難の僕」と呼ばれる救い主として、
主イエスが遣わされることが預言されていました。苦難の僕として
愛する独り子を遣わす。この神の悲しみがクリスマスにはあります。
 第二に、自分の罪の大きさに気付かされる悲しみです。
神の御子が十字架にかかるためにお生まれになったのは、
それほどの罪が自分にあるからに他なりません。神に背く
私たちの罪を担う必要がなければ、主は終末の再臨の時の
ように、天の軍勢に囲まれておいでになったに違いありません。
待降節の典礼色が紫なのは、そんな自分の罪を知り、悔い改める
ためです。
 しかし、その悲しみにもかかわらず、私たちは喜ぶのです。
神は悲しみにもかかわらず、また人の罪深さにもかかわらず、
確かに御子をお与え下さったのです。それは、神が私たちを
本当に愛し、救いたいと願ってくださったからです。
神の深い深い愛と、救いたいという熱意がすべての事に勝って
いたから、クリスマスがありました。
 「主の力強い御腕」は、神の悲しみや人の罪を突き破って、
主イエスを通して私たちに差し伸べられました。
ここに、クリスマスの悲しみを見抜く私たちの、驚きと、感謝と、
喜びがあります。

 クリスマスカラーは、赤で主の十字架の血潮を示し、
緑でその血による永遠の命の救いを示すと思いますが、
そこにクリスマスの恵みがあります。